自由な発想を教育する、と言うのはどういう事か。

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簡単に言い換えれば、「その人の内面から出てくる美を伸ばす」と言う事に繋がります。これは則ち、思想教育などではなく、徹底した規律の中でも、発想の自由や個人の主張が尊重される発想教育そのもの。

現在の日本の教育がどちらに向いているかと言うと、無規律な中での発想の固定。つまり思想教育でも何でも無い、まさしく管理教育そのものです。私は発想の自由と個人の主張を尊重しますが、規律もまた大切にしたいと考えています。つまり道徳観と倫理観の双方を大切にしたいのです。

どちらを重視するかと言われれば、反射的に「道徳観」と答えるでしょう。と言うのも、倫理観ばかりに全ての価値観を頼ってしまうと、例えば「空気を読めないヤツはダメだ」と言うレッテルが生じてしまうからです。今の日本人の弱点が、ここにあります。

倫理観と言うのは、すなわち「空気」なのです。ネット社会の空気は現在、比較的「右派」に偏りつつあります。その空気に流されて「右派」になる人がいかに多い事か。私自身も愛国者ではありますが、自分自身を右派と決めつけようとは思っていません。と言うのも、伝統の保守は大切ですが、保守するだけでなく革新が無くては、伝統は滅びていく運命にあるからです。多くの右派は、その革新を否定します。

しかし、私を含め、この記事を読んでいる皆さん全員がそうであるように、「インターネット」と言う“コミュニケーションの革新技術”を駆使しながら今の社会を生きています。いくら保守派、伝統保持を叫びながらも、このような革新技術に身を染めている以上、革新派であることを否定は出来ないからです。そう言う意味では、皆さんも含めてコミュニケーションについては「左派」であることに変わりないわけです。

ただ、それでも私は「手書き」と言う事の大切さを忘れたくない、つまり伝統を保持したいために、字は下手くそですが、手紙を書きます。年賀状の宛名も全て、手書きにこだわります。そして書いている最中に、新たなる発想を得る事もあります。つまり、革新こそが全てだなんて、夢にも思っていないのです。

自由な発想と言うのは、そういった規律の中から抜けだそうとするエゴイズム、そしてフラストレーションから生み出されてくるのです。そしてその発想が、世の中のためになるか、ならないか。ここにも大切なポイントが生じてきます。

芸術の世界であれば、ただ素晴らしく、新しい物を作ればそれで良いのかもしれません。が、仕事や生き様についてはその内にあらず。世のため、人のためになる物でなくては、生み出すべきでないと言う“思想”を持っています。

私は思想を通じて、本当の意味での自由を訴えたいと考えているのです。規律の中から自由な発想を得ることが出来れば、それは本当に新しい一歩と言えるからです。

安藤忠雄氏の建築に住みたいなんて、夢にも思いませんが、私は彼の建築哲学が大好きです。彼の書籍を読んだわけでもなく、彼と直接話をしたわけでもなく、彼の話を聞いたわけでも何でもありませんが、少なくとも彼の作品の中に身を委ねるだけで、その哲学が伝わって来るのです。

「人は不自由の中にいるからこそ、新しい発想を生み出すことが出来る。」

安藤氏の建築は、コンクリート打ちっ放しであることが基本。しかも地下に潜り込んでいくような構造が主で、本人曰くの「耐震強度は、震度10だ」そうな。地下に潜り込んでいく構造は則ち、地面と建築物を一体化する、つまり建築物を「地形の一部に組み込む」ことを意味していると思います。また、コンクリート打ちっ放しと言うのは、音が反響するし、壁に物を打ち付けるのにも一苦労。押しピンでポスターを貼る事すら出来ません。これはすなわち、まさしく「原始時代の人々が洞窟に住んでいた」当時の環境を彷彿させます。

安藤忠雄建築 光の協会

安藤忠雄 光の協会

それだけ人は、その家の中に住むだけで不自由と苦労を余儀なくされるのです。これを、現代の侘びの哲学と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。

侘びの哲学もまた、徹底した作法や狭い茶室の空間で、出来る表現の幅を狭め、茶人に強烈な不自由を迫ります。その不自由の中でこそ、自由な発想を生み出す動機を得られる。つまり私たちの内面に潜む美を、必死になって探し、そしてそれを表現する事を学ばされるのです。

つまり徹底した規律の中にこそ、本当の意味で自由な発想が生まれてくる。私はこう思うのです、「思想の自由では人間のエゴしか見出せない。規律の中の自由であれば、人が自らを超越した発想を生み出すことが出来る」、と。

日本の教育は、まだまだ無規律そのもの。リベラルな教育は、規律の中で新たなる発想を生み出させるところに、その本義が置かれるべきでしょう。無規律とはすなわち、無秩序な人と社会を生み出すだけに終わってしまうのです。