犬や猫に大声を出しながら手を上げれば、彼らは耳を伏せて平伏します。
猿のように二足歩行が可能な動物場合、急所が集中している腹部や股間を守る為に、身をかがめます。
いずれの動物も、相手に叶わないとわかれば、目を逸らすか、下に向けます。お辞儀

これら全てがお辞儀の始まり。

そういう考えもなく、単にどこかで学んできたようなマナーを人に押し付けるのは、その人の礼儀に対する哲学が存在しない証拠。そのアイデアには、「その人」が無いのです。

私は、真の礼儀とは相手への尊重の念と道徳心さえあれば、自然に生まれてくる物と考えています。だから、接客などの教育において、お辞儀如きの形をこれ見よがしに教えるほどの愚行は無い、と思うのです。それをすれば、人の深みが失われるばかりだ、とも考えています。

人とは、他人とのコミュニケーションを通じて自らが人である事を、初めて認識できます。このコミュニケーションを取る上において、相手を尊重する気持ちほど大切な物は、世界各国のどこを探しても見つからないのです。

形だけの礼儀と言うのは、まったく見苦しく、持つべき心があれば、礼儀は自然に生まれ来るものです。

【礼といい礼という。玉帛をいわんや。楽といい楽という。鐘鼓をいわんや。】
この孔子の名言に学ぶべきでは無いでしょうか。「お客様のために」などと言う綺麗事は、「自分のために」「会社のために」「給料のために」と言う気持ちを誤魔化すだけのための戯れ言なのです。持つべき気持ちは、お客さんと互いに敬い合い、尊重しあう気持ち。そして日本においては更にもう一歩進み、お客さんと互いに譲り合い、一歩下がる謙譲と謙遜の気持ちが大切なのです。

それこそが、真のもてなしの第一歩。マナー教育などに誤魔化されず、真人間としてより高いレベルに成長しましょう。